一級建築士/嶋基久子さん
例えば、女性を写真に撮る時、どんな場所を選ぶだろう。
風に揺れるコスモスや、光り輝く海辺。それらはいかにも、優し気で美しく、女の子に似合いそうだ。しかし、都会のビル群を背にして似合う女性がいる。今ある現実から目をそらさず、かといってがむしゃらに抗う事もせず、自分らしく時代を生きる女性は、人工物の中にあっても輝けるからだ。凛として、しなやかに、潔い。
一級建築士、嶋基久子さんはそんな女性だ。
建築の土台はコミュニケーション
「建築士」というと、複雑な図面を引いて、建設現場で指揮するイメージがまず思い浮かぶ。それらが重要な仕事である事は間違いないが、一番大切なのは「話を聞く事」だそうだ。
多くの人にとって、住宅は一生に一度の買い物。大きなお金も動く。その分、描く理想も大きい。はち切れんばかりに膨らんだ夢。なるべく叶えたいと思う気持ちと共に、建築士としては予算、法規法令、納期という現実的なスケールで計りながら整理整頓もしなければならない。要望を聞いてプランを提出し修正をする。それを何度も繰り返し、予算を組んでは再び修正をかけて行く。「モノ」で溢れ、閉まらなくなった引出しを思い浮かべて頂きたい。そこから、本当に必要なモノと不要なモノを分け、さらに大きさや用途によって区分けをすると、すっきりと使いやすくなる。対話を通して、嶋さんはリクエストの整理整頓を行う。だから、コミュニケーションは、まさに「土台作り」なのだ。
対話を重ねる中で、嶋さんは意外な事に気づいた。それは「自分が本当に求めている事を分かっていない方が多い」こと。情報過多の現代、心に描く理想の住まいが、実は「自分の家」の形ではなく、世間で思われている「理想の家っぽく」作られたステレオタイプだったりする。そんな時は、打ち合わせをしていても、どうもしっくりこない。お客さんもモヤモヤしている。自分の好みではないのだから当然だ。だから、とにかく話す。本人も自覚していない本当の「好き」を引き出すまで、嶋さんは丁寧にコミュニケーションをとり続ける。
ここでもう1つ大切なのは、いかに信頼を得るか。そのためには小さな積み重ねが大事だという。時間を守る。連絡を欠かさない。浮上しそうな問題点は早め早めに対処して伝えて行く。こうした、ごく当たり前の事をきちんとこなすことで信頼感は高まる。そうすれば、より本音が聞ける。嶋さんの姿勢は徹底して真摯だ。
生き急いだ20代
嶋さんは両親ともに建築関係の仕事をする家庭で育った。都市開発や高層ビルを手がけていた父親は、仕事が完成すると、その中に出来たレストランに家族を連れて行ってくれた。ピカピカに新しい建物と華やいだ人々の喧噪。空間を創る事の素晴らしさを、嶋さんは幼いながらに肌で感じていた。
こうした環境の影響からか、大の工作好き。幼稚園では段ボールで大きな家を作り、先生たちを驚かせたと言う。
しかし、最初から建築士を志したわけではなかった。
本を読み、文章を書く事が好きだった嶋さんが大学で専攻したのは「日本史」。卒業後は大手企業に事務職で就職。しばらく働いてはみたものの、もっと創造的なことをやりたい欲求は押さえきれなくなり、選んだ道は、やっぱり「建築」だった。
『縁ですね。建築を選んだ事は。親は強制も反対もしませんでした。ただ、自分が建築家の家に生まれ育った事も含めて、今は縁としか言い様がありません』
昼間は働きながら、夜間に専門学校に行くと言うハードな二重生活をこなし、約2年で設計事務所に転職。ここで実務経験を積んで、2級、そして1級建築士の資格を取った。
淡々と語る嶋さんだが、実は、その勉強は並大抵ではない。
通常、建築学科を卒業しても、1級建築士の資格を取るには数年かかると言われている。しかし、嶋さんは「1級試験を受けると決めた年に1回で受かる」と心に決めて勉強をした。試験は学科と実技。猛勉強も苦にせず学科はクリア。そして実技試験はその約2ヶ月後。この間は何より時間との闘いだった。通常、実技試験前に図面を30枚描ければ合格ラインに達すると言われるのだが、どうしても1発合格にこだわった嶋さんは、なんと倍の60枚もの図面を描いた。1日約 1枚のハイペース。しかも、設計事務所の仕事もしながら。華奢で小柄な体のどこにそこまでのパワーが隠されているのか、不思議でならない。
『意地、でした。建築学科を出ていない私が建築の世界で生きるには、どうしても1級建築士の資格を取らなければと。それは使命感というか、なにかに追い立てられるような、そんな感じでした。今思うと本当に“命がけ”でしたね』
20代後半。なぜか生き急いでいた。人が5年かかるなら、その半分でやってやろうと思っていた。そうして掴んだ建築士の資格。とにかく無我夢中で突き進んでいた。
転機が訪れたのは、ある住宅引き渡しの時。
基本的に設計は作って渡したら終わりの仕事。それが、荷物が運び込まれた日に偶然訪ねる機会があった。
嶋さんは愕然とした。最後に見た空っぽの空間とは、全くイメージが違っていたからだ。室内に運び込まれた、使い慣らされた「モノ」のエネルギー。それが、空間をがらりと変えていた。その時に嶋さんは思った。
『美しい空間を手に入れるだけでは、美しく暮らす事は出来ない』
これがキッカケとなり、嶋さんは「空間」と「暮らし」の関係を深く考えるようになったという。そして、「空間には人を変える力がある」ことも実感して行く。
建築がただの家作りではなく、トータルバランスとして住環境を考える仕事だと認識してから、嶋さんの仕事に対する姿勢はぐんと変わった。この頃から肩の力もストンと抜けた。よりコミュニケーションを重要視するようになったのも、美しさと共に、住人の暮らしやすさや心地良さに、より心を砕くようになった表れだった。
住環境の影響力
私たちは、住環境がどれほど自分に影響を与えているか、きちんと考えた事があるだろうか。
多くの時間を過ごす家。住空間は視覚情報として常に住む人に影響を与え続けている。だから、もし本当に今の自分が嫌ならば、環境を変えることで解決出来る事もある。それくらい、住環境が与える影響は大きいと嶋さんは言う。
『時には先に空間を作るのです。なりたい自分を部屋に投影してそこで暮らしていく。人間には適応能力がありますから、環境を変えても、3週間もすれば慣れてきます。こうした柔軟性を利用して自分自身を変えることも可能です』
「部屋は自分を映す鏡」。暮らし方はその人自身を映している。部屋を見ると、その住人の現在の心理状態までもが分かるそうだ。
では、嶋さんにとっての心地良い家とはどんな家なのだろうか。
『あまりたくさん物がないこと、最小限に生きることですね。ある意味ストイックかも知れませんが、物がたくさんあることは迷いの始まりだと思うのです。物が多すぎることは雑多なことを生んでいきます。すっきりと最小限に暮らす。そして、ごくわずかな好きなものを身の回りに置いておくことが、私の心地良さですね』
水平垂直が好き。理路整然、建築の割り切れる世界が好きだとクールに語る反面、嶋さんは可愛らしいものが大好きだ。最近のお気に入りは、英国Farrow&Ball社の壁紙。
Farrow&Ball社壁紙 輸入代理店/株式会社カラーワークス:
http://www.colorworks.co.jp/
色、柄、バランス、全てに引かれ、様々な使い方を提案している。引出しの中に敷いたり、家具に張ってみたり。自身が今年からオーダーで作っているオリジナル家具にも使う程の大ファン。
今年一番心に残ったリフォームの仕事でも、この壁紙を使用した。
この時、施主であるご夫妻は、当初、リフォームにあまり乗り気ではなかった。希望したのは親孝行なお嬢さん。生活空間を整えてあげたいお嬢さんの気持ちが、現状維持で良かれとしていたご両親の心を動かしての着工だった。しかし、工期が進むに従って、ご夫妻は空間を変える事に興味を持ち、仕上がった時には、これまでの仕事で一番というほど感謝された。壁紙も大好評で、それも嬉しいことだった。
『仕上がってお渡しする時は本当に嬉しい時です。でも私は、最初に空間をどう変えるか、アイデアを出す時が一番楽しいですね。それから、現場も大好きなので、何度も現場に通います。こうして見ると、最初から最後まで全部好き、ということになっちゃいますね(笑)』
建築の仕事は好きだったが、心の底から「本当に建築が好きだ」と言えるようになったのは最近の事だと言う。おもしろさをどんどん発見出来るようになって、楽しくて仕方がない。創り出す事、変化を見る事、人と関わって行く事。関わる全ての人が「作ろう」と向かうベクトルが心地良くてたまらない。
『歳を重ねて、経験を積んで、今は“好き”のレベルが上がった感じです』
理想の街作り
建築は天職だと言い切る嶋さんに、今後の目標を聞いてみた。
『そうですね。建築実務はコアな部分として携わりながら、ただ建物や空間を作るのではなく、いかに快適に生活できるかを提案していきたいですね。住環境が人に与える影響をもっと知ってもらいたいです。
中期的には住宅を作っていきたい。
そして、最終的には街を作りたいです。それは、入れ替え可能な家がある街。
今、“家は一生もの”という考え方ですけれど、人生の中で、家族構成の変化や展開がある時に、住み替えられる環境があれば、変化をもっと軽やかに受け入れて行けるのではないかと思うのです。人間は変わるものです。その時々の自分にあった家に、誰かと入れ替わって行く。大切に住んで、また誰かに暮らして頂く。自分の思い出ある家で、誰かがまた思い出を重ねていく。ステキだと思いませんか。そして、本の共有スペースやプール、バーベキュースペースなんかもあって、年をとっても淋しくないし、子育ても1人じゃない。お店や畑も作って、楽しく暮らせる街作りをしたいんです。
そして、良識ある人たちに住んでもらいたいですね。街は住む人が創るからです。何より、自分が暮らしたいと思える街作りをしていきたいです』
嶋さんの目は、常に前に向いている。
●一級建築士
嶋基久子さん KIKUKO SHIMA
神奈川県出身。設計事務所にて建築実務を経験後、2006年〜独立。空間を創るだけではなく、『美しく快適に住む』をテーマに、住環境の総合プロデュースを行う。『片付けについて語る会』を主催し、現在の環境を快適に整える手法や、住環境が人に与える影響について、自らの実践と研究の成果を、参加者と共有する機会を設けている。
http://www.kiku-architect.com/
15:今を輝く 堀場園子さん
14:和妻師 北見翼さん
13:川崎市岡本太郎美術館 館長/村田慶之輔さん
12:八百屋 瑞花店主/矢嶋文子さん
11:舞踊家・アーティスト/はんなさん
10:画家/鰐渕優子さん
09:水中カメラマン/中川隆さん
08:創作ビーズ織り作家/佐古孝子さん
07:コナ・ディープ(ボトルドウォーター)
06:ミュージシャン/ヨーコさん
05:オルガヘキサ/相田英文さん
04:絵師/よしだみよこさん
03:一級建築士/嶋基久子さん
02:ニードルフェルティスト/華梨(かりん)さん
01:公認バース・エデュケーター/飯村ブレットさん