ステキなひとにあいました
画家/鰐渕優子さん

二極性のバランス

伝統的な美へのリスペクトと現代的な視点。
大胆な色使いと繊細なタッチ。柔らかさの後ろに透ける強さ。
その振幅の大きさが、画家としての可能性、女性としての魅力として現れる。
鰐渕優子さん。新進気鋭の画家だ。

作品の中でひときわ目を引くのは「受胎告知」。
聖書の中でも重要な場面であり、優れた芸術家たちが好んで描いてきたテーマである。
その分、難題であり大きな挑戦ともなるこのテーマを、なぜ鰐渕さんは選んだのだろう。

『昨年の冬でした。“今、描かないと!”と強く思ったんです。  おこがましいですけれど“描いて”と言われているような感覚ですね』

鰐渕さんの描き方は頭の中にふわっとゴールが見え、そこに向かうため資料を見たり
読んだりしながらクリアにしていくと言う。
「受胎告知」は、まさに啓示を受けたように目の前に広がったテーマ。
その日から一心不乱に制作に向かう日々が始まった。

『でも、実は一度、失敗しているんです。
 “絵が動かなくなる”と言っているんですけれど、もうどこにも筆が入れられない・・。
 しかし完成ではない。完成していないのに動かせない。だから・・失敗なんです』

それでも、何かに後押しをされるようにもう一度キャンバスに向かい、
魂を震わせながら描ききった渾身の大作。



穢れなきブルーの瞳をした処女マリア。
身にまとうのは瞳と同じ慎み深い青色のローブ。
彼女の前には、神の恵みによる懐妊を告げる大天使ガブリエルが跪く。
ガブリエルは短髪で若々しい青年のように描かれ、凛とした表情。
祝福と大きな責任を宿した澄んだ眼差しはまっすぐにマリアを見上げている。
黒を使用せず、赤と青とゴールドを中心に配された色彩。
天使の羽の質感をそのまま持つ薔薇が二人を包み込んでいる。

クラシカルな中にも新しさを感じる作品。まぎれも無く「彼女らしさ」に溢れている。

このテーマに何より必要とされるのは「品格」ではないだろうか。
描き出せるものではなく、生来作者が兼ね備えていなければ醸し出せないもの。
これこそ、画家・鰐渕優子の最大の魅力の一つだろう。

芸術と経済
東京・銀座にある老舗テーラーの長女として
生を受けた鰐渕さんは、小学校からミッション系の
学校に通い何不自由なく育った。
父親は美術に造詣深く、本業の傍らギャラリーを運営。
コレクターとしても名を馳せていた。
こうした環境の中、幼い頃から絵が大好きだった少女は、自然に描くようになり、独自の才能は、優れた美術品に多く触れる機会の中でさらに育まれていった。

鰐渕さんが多感な頃、日本はバブルの真っ最中。
美術品は「美」から離れ「金」の隠れ蓑となり、海外有名オークションでは数々の名画が日本企業によって驚くような高値で落札されて行く時代を迎える。
欲と得にくらんだ目をあざ笑うように、まがい物をつかませる不届き者も多数徘徊。その渦の中に、鰐渕さんの父親もいつしか飲み込まれていく。

『一緒にオークションに行った事もあります。良いものに出会う幸運もたくさん
 得ましたが、絵画市場への疑問もわき上がっていました。
 父は騙されることも多かったので、そこから私が学んだことは大きいと思っています』

そして、付属から入った大学を辞め、周囲の反対を押し切って入学しなおした
多摩美術大学絵画部版画科での経験も、画家として生きる決意を固めさせてくれた。

『銅版画を専攻して、本当に毎日学校に通って、勉強して。
 とても楽しかったけれど、画家として生活が出来るのかという不安はありました。
 悩み、挫折する友人たちも数多く目にしましたし。
 二人姉妹の長女でしたから家のことも考えました。それでも、
 私は画家になった方が家業にもプラスになる、プラスに出来ると信じたんです』

右脳左脳と言われるように、創造的感性と現実的論理性は全く違う回路が必要となる。
後世に素晴らしい作品を残した芸術家でも、貧困に喘ぎ、死後ようやく認められた
という話は枚挙にいとまがないように。
だが、若くして得た貴重な経験と商いのDNAが、芸術性を壊さずしてこの両輪を同時に
回転させる発想を彼女にもたらすこととなった。

『たくさんの方にもっと芸術を身近に感じて頂きたい。
 そして“コピー”ではなく“本物”を持つことの大切さを伝えたい。
 そのためには適正な金額と、制作者の技術と努力が必要だと思うんです』

こうした思いから、鰐渕さんは画期的な試みを始めた。

小さなキャンバス。
そこに描かれているのは、愛らしい猫。
背景は赤と金を使用し、玄武、青龍、白虎、朱雀を
モチーフにしている。
福を招く招き猫にあやかった縁起物の作品だ。
これを、注文を受けてからその人のために描き、
販売するという。
手元に届いた時“モデル版と違う”とがっかりされないように、構図段階ではパソコンも駆使しながら、全てを自らの筆で仕上げていく。しかも、自分のペットの写真を送ればそれを元に、背景は変えずに制作してくれるという、
ペット愛好家には垂涎のセミオーダーメイド。
価格も手の届く範囲に押さえた「ペット肖像画」は、
まさに、老舗テーラーのお嬢さんならではの発想と言えるだろう。

『金額や大きさで絵画に対する情熱は変わりません。
 あえて変わるとすれば時間や疲労度でしょうか。
 私はせっかちなので、早く結果が見える小作品も好きなんです(笑)。
 小さくとも一から描くので、1ヶ月に描ける枚数は限られています。
 どんなにご注文頂いても量産出来るわけではないので、
 莫大に儲けられるわけでもない(笑)。
 でも、これをキッカケに他の作品も見て頂けたら嬉しいし、
 家に自分の好きな絵があるって、それだけで幸せな気持ちになりませんか?』

ここでも、絶妙なバランス感覚で仕事を楽しんでいる。

『自分の為に、という制作も大切だけど、人に求められて表現することもとても大切。
 芸術という事に甘えない。人に見て頂いてナンボ、芸術だって商品ですから。
 芸術性、クオリティと共に、かけられる時間とかを計算しなければと思います。
 市場に貢献できる画家を目指しています。
 芸術の持つ力の大きさ。それは文化を創る力であり、国をも動かす力です。
 自分が美術品を創る限りは、それが外貨を稼いでくるくらいの事を考えたいですね』

合理性と不合理性。
そこに矛盾は生じない。なぜならば、それこそが芸術だから。

光と闇 そしてー

鰐渕さんは「美しくなければ芸術ではない」と考えている。

『私の考える芸術とは“何かに捧げるもの”。
 かつて芸術は、神々に捧げられるもの、王様や高貴な方々におくるものでした。
 自分より遥かに偉い、尊い人に対して創る物が美術品だと思います。
 そうした方々に差し上げるものは、美しいものでなければ。
 こうした想いが私の“創造”へのスタンスです』

少し前まで、鰐渕さんは迷っていたという。絵画市場への疑問。現代アートへの疑問。
疑問が迷いとなり、絵のタッチに影響した事もあった。

—この世は、善と悪が同時に存在する事でバランスを保っているー
聖獣バロンと魔女ランダが相対し戦う、バリ島の伝統舞踊・バロンダンスを
モチーフに描いた「感謝の舞」。
動きのあるこの作品を描きながら、幸せも困難も同時に貴重な存在である事を知り、
今回、静かなる「受胎告知」を描いて、大きな変化の予感を感じたという。



『それまで描いていたものが地獄だったとすれば、今は天国を描くと言いますか。
 光あるところには必ず闇は存在する。
 闇の時期があったからこそ、光が描けるのだと思います』

現在、鰐渕さんは聖書をテーマとして制作活動に励んでいる。
大好きな絵を描ける幸せ、
この世に生を受けたことに日々感謝をしながら。

熟成されたワインが、輸送船のオーク樽の中、
ゆっくりと波に揺られてより深みを増すように、
経験の波は感性をあらい、内なる情熱の胎動を促した。

『描く事が本当に大好きなんです。常に描き続けていたい。
 命を燃やして描いています』

大人の女性と天真爛漫な少女が同居する顔をほころばせ、
きっぱりと語る彼女に、今、迷いはない。

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鰐渕優子さん

●画家
鰐渕優子さん YUKO WANIBUCHI

東京都出身。
多摩美術大学絵画部版画科卒業後、
株式会社銀座テーラー入社。
会社員としての仕事をこなしながら
制作活動を続ける。
2002年、作品制作に専念するため退社。
以降、精力的な創作活動を続けて現在に至る。

1997年第4回さっぽろビエンナーレ入選。
1998年第1回池田満寿夫記念芸術賞入選。
1998年Festivaul International al arlelor gtafice cluj-napoca(スペイン)入選。

●注文絵画工房
http://www.aops.jp/

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14:和妻師 北見翼さん
13:川崎市岡本太郎美術館 館長/村田慶之輔さん
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